熊本のやきものー八代焼・小代焼について
八代焼【沿革】加藤家改易後入国した細川家の下、上野喜蔵(尊楷)一族が、豊前田川郡上野郷から、隠居していた細川忠興(三斎)に従い、1632(寛永9)年に八代に移住し高田手永の木下(きくだし)谷に奈良木窯を築くが、1658(万治元)年には南西1,5㌔の平山に長男忠兵衛(木戸上野)・次男徳兵衛(中上野)が窯を開き、さらに徳兵衛の次男の太郎助(奥上野)が同地に窯を開いて以後、三家はそれぞれ藩の御用窯として扶持米を給されて、苗字帯刀を許され、江戸時代を通じて茶器を中心に生産を続け、廃藩置県後民窯として生産を続け明治中期に廃業したが、今日、上野家など数軒の窯元が主に青磁象嵌を焼いている。
【やきもの】木下谷にはすでに加藤時代に八代城代加藤正方が焼かせた窯があったとされ、尊楷はその窯を引き継いだものと思われる。奈良木窯時代は26年間であり、在銘のものがないので今日では出土品の分析により検討がなされているが、正確な解明がまたれる。ただ傾向としては、胎土は平山窯に比してかなり粗く、赤土・鼠色土・白土などを混ぜ合わせたものが多く鉄分が多い。釉薬は鉄釉・土灰釉を用い、青色・青黒色・茶褐色・ねずみ色・海鼠色等で、装飾には辰砂や刷毛目・白土象嵌が見られるが、象嵌はこの時期は素朴なものが多く、唐草・花文・三島文等である。この時期の物の中には上野の釜ノ口窯の物に類似したものも見られる。抹茶碗は高台が低く大ぶりのものが多いが、割高台も見られる。
平山窯になると、底部に渦文が現れ、高台には釉をかけず、胎土も漉土を用いることが圧倒的となる。在銘の物も多くなり、象嵌には牡丹・唐草・竹・幾何文などの雄渾なものがおおく、象嵌用の白土を胎土に、藍または黒の象嵌をした太白焼(白八代)(三代目喜楽が創めたとされる)も現れた。平山窯は19世紀には日用雑器もつくりはじめ青磁象嵌が多くつくられるようになった。
(象嵌牡丹文角水指「ぞうがんぼたんもんかくみずさし」)
*白土を埋めた象嵌は前後に大振の、両側面に小振りの牡丹文が際立った意匠力を示す。茶席に使われたと云う。
(象嵌暦手大壷「ぞうがんこよみておおつぼ」)
*八代焼の代表的象嵌で、「暦手」とは伊豆の三島神社の細字で仮名書きの「三島暦」
からきている。⒖~16世紀の朝鮮でおこなわれた「三島手」の技法が生かされている。
小代焼【沿革】地名から龍原(りゅうのはる)焼ともいう。細川氏の肥後入国で豊前から移り住んだ牝小路(ひんこうじ)家と葛城家が最初の窯元とされるが、加藤時代の窯場を利用したという伝聞はまだ未確認である。この両家は上野で尊楷の下で窯業に従事していたらしい。陶工源七(牝小路家初代)と八左衛門(葛城家初代)は共同で窯を開き、1769(明和6)年にその窯の上に瓶焼窯(六連房の登窯)が造られたことは発掘調査により確認されている(明治20年頃牝小路家が廃業し、葛城家の単独経営が続くが大正10年頃に廃業)。
1644(正保元)年に御赦免開きの田畑を与えられ、1820(文政3)年に両家は細川斉茲に陶技を披露し、その功により苗字を許され、1851(嘉永4)年には惣庄屋直触の郷士に任ぜられている。また、燃料も小岱山の木を切り出すことが許されていた。
瀬上窯は1832(天保3)年に御山支配役瀬上林右衛門が九房の連房式登窯が開かれ、牝小路・葛城家や外からの陶工も加えて大規模に焼かれた(大正7年まで)。近くの石原窯もその影響下にあった。南関町堀池園の野田窯は軻永年間の開窯であったが、昭和13年に廃窯になった。現在は熊本市、荒尾市府本、南関町宮尾等で復興されている。
【やきもの】素地は粗い鉄分の多い土で、鉄釉・長石・ガラス・鉛に藁灰や笹灰を用いた白濁釉を流し掛けした瓶・鉢・皿等の雑器が多いが、茶碗や水指等の茶器も作られ、近年の熊本城を中心に発掘調査が行われて、茶器としての小代焼が明らかにされつつある。
使用された銘は、中期以後のものに見られ牝小路・葛城は苗字御免となった(1821年)以降のものと思われ、松風・小代・五徳・小代山・小代光等の銘がある。この焼の初期のものが上野・八代に近いのはその成り立ちから肯ける。山鹿の上野焼も同系である。.
(灰釉簾文水指「かいゆうすだれもんみずさし」)
*水指に広口瓶仕立と云う意匠は、阿蘭陀水指をおもわせる。肩には鋸歯状の山形、胴は簾状の破線文を箆がきしている。
(灰釉飴掛分舟形手付皿「わらばいあめゆうかけわけふながたてつきざら」)
*菓子器である。轆轤で成形後両辺を切り落として船形にして、紐状の手をつけている。