(備前焼前史)
備前焼は須恵器(古墳時代後期、1000℃を超えた高温で燻(いぶし)焼還元炎(酸素供給を絞りながら炭素分の多い炎で焼成する。技法は朝鮮半島からもたらされた))の系統をひきながら、一千年以上も続いて、誕生から今日まで、途切れることなく焼かれた無釉のやきものである。
(古墳時代後期の邑久(おく)郡出土の須恵器)
岡山県の各地に須恵・土師が居住していたことはこの地の地名にとどめられている。例えば邑久郡長船町に東須恵・西須恵・土師などの地名が残り、10世紀に成立した『和名抄』源順著(一種の百科事典)に邑久郡須恵郷・土師郷がみえる。
*記紀では応神天皇十四年百済から秦の始皇帝の後裔の弓月君、秦氏が127県の民をつ れて帰化(渡来)し、各地に分散したとある。
*これらの集団は連(むらじ)が統率し、中央の内務(うちのくら)寮の諸陵司(みささぎのつか さ)・土工司(つちたくみのつかさ)・筥陶司(はこすえもののつかさ)などから要求されたや きものを地方に割り当てることになっていた。「やきもの」集団は土地を貰い、特権も認めら れていたので、立派な焼物を上納すれば、生活は保証されていた。
*備前の国は『延喜式』の規定の19908個中の3802個(約2割)を負担していた。
(備前焼の前身寒風(さぶかぜ)窯)
(細工谷遺跡ー大阪市ー 出土の鴟尾(葉状文で鰭部分)7世紀)ー大阪市文化財協会蔵
*難波宮に関連する遺跡で、1996年に発掘され、和同開珎に枝銭、百済寺関連の墨書土 器・瓦の出土、富本銭の枝銭その他古代の空白を埋める資料が出土した。
鴟尾とは屋根の両端を飾る大型の瓦(名古屋城の金の鯱鉾も同類)である。
(寒風古窯跡群位置図ー牛窓町)
備前国の寒風古窯でつくられた須恵器は愛知県の猿投窯に匹敵する有数の窯で、朝廷へ生産品を調貢する六国の一つに挙げられた。
寒風古窯跡群は岡山県の旧邑久(おく)郡の牛窓町、邑久町、長船町一帯に分布する邑久古窯群跡の一つであり、その中で最古の古窯群は長船町の木鍋山窯跡で(約1450年前)で、この地から窯群は次第に南に移動し、その一番南に寒風古窯群は位置する。
(寒風大壷 奈良期 長船博物館 41cm h)
モノクロで見えにくいのであるが、白い胎土に美しい薄緑色をもつ自然釉の配色が美しい。
この時代は中国の白いやきものへの嗜好があり、他の須恵器よりはるかに白いやきものが流行した。さらに、美しい薄緑色の自然釉の衣装を模様として配し、窯印もつけられるようになった。
平安末期頃になると、朝廷の領地、不在地主の公卿・神社仏閣の領地(荘園)が在地の地方官人や新興の武士らにより掠め取られ始めるようになった。
須恵部・土師部などの部族たちも、勢力を持ったものは武士化して廃窯し、力の弱いものは特権を失い、転業の憂き目に会うようになった。
焼物師として生きるにも、新しい需要先を求めなければならなかった。一方では木製品、なかもで根来塗のような漆器生産も盛んになり、寺社でもそれを収入源とするところが現れたり、木地屋の集団が各地にひろがり、須恵器・土師器の需要が低下してゆき、生産の廃絶が相続いた。この時期に次の備前焼にどのような形で引き継がれてゆくのであろうか?その詳細の究明はこれからのことであろう。
やがて窯群は北部の備前市伊部(いんべ)地区に移動し、「備前焼」が焼かれることになる。寒風古窯群が備前焼のルーツといわれる所以である。
(半地上式鉄炮窯の出現)
伊部では築窯技術が発達し始めた。須恵器を焼く窯は窖(穴)窯という形式の窯で焼かれ、六大古窯の備前以外は室町時代まで窖窯で焼いたのに対して、備前では鉄炮窯とあたかも大砲が横たわっているという形状から名付けられた新しい窯が伊部に登場した。
*鉄炮窯は完全地下の窖窯から、天井部は地面で筒状に人工的に張られる。窯は長大化す る。
国家や国衙の保護を失った職人・技術者は新たな保護者として、荘園領主や寺社の求めに応じることとなった。
彼等は「山の人」とでも呼んでいいのか、木地師・塗り物師・焼物師・鍛冶師・竹細工師などとして集団或いは個人で峯から峯をめぐった。一方農耕地に付属した農民は農地から勝手に離れることは出来なった。
山の人たちは、市の日などには山から、作り溜めた製品を背負って下山し、必要な日常品と交換してまた山に戻るという生業であった。
伊部焼物師たちも伊部の北方の熊山の霊峰(熊野大権現の座所)の谷陰で作品をつくり、福岡の市の日に焼物師の女房達が壷を並べて買い手を待つ姿が、『一遍上人絵伝』巻四のなかに描かれている。恐らく12世紀末頃の情景であろう。
(一遍上人絵伝)福岡の市
(鎌倉時代の伊部)
平安時代の備前の国衙は今日の岡山市の大字国府(こうの)市場附近にあったが、鎌倉時代には経済に中心が東に移動し、吉井川河口付近に集中し、高瀬舟の舟運基地として機能し始め、やがて備前焼の全国的販路網の基礎が形成された。国衙(国庁)は邑久郡長船町の地の福岡へ遷された。これに呼応したかのように、北の万富附近から福岡・長船に集まり刀剣生産に従事し、かって繁栄した須恵・土師など邑久郡の一団もこの時流に武士として或いは商人として身を投じた。
不振であった焼物師たちも国衙の移動で付け替えられた国道に沿って熊野権現の附近に集住しはじめた。
このような現象の背景には、伊部地方が古くから須恵氏の家長の秦氏の荘園であったという歴史も関わっていたことにも留意しなければならない。
そして霊山熊山に窯群が叢生することになった。
(熊山窯の時期)
この地の窯は医王山西側、熊山山頂へのルートと、鬼が城池上流域に散在していたが、その中で、坊が谷窯跡などからは瓦が出土するが、グイビが谷や合が渕窯跡からは瓦片が出土しない。その意味は、後二者が寺院勢力との関わりを絶っているものと思われる。
これらの窯の焼成品に従来の須恵器特有の灰黒色の色合いから備前焼特有の赤や赤紫色・赤褐色の色を発する製品があらわれ、壷の口縁の形状も須恵器のラッパ口から玉縁へと変化している。そのことから、この辺りの窯からが、須恵器から備前焼への脱皮が見られるといわれている。
(合が渕窯跡発掘写真)
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