(粉引徳利 小山富士夫作)
小山富士夫(1900~1975)プロフィール
1900年親子3代クリスチャンの家に生まれ、クエーカー教徒として洗礼を受ける。
1921年大正デモクラシーの風潮の中、社会主義に触れ東京商科大学(現一橋大学)予科を3年で退学し、1923年にはカムチャッカ沖で操業するカニ工船に乗る。この年の9月関東大震災の報で急遽東京に帰り、震災被害者の救済活動に挺身した。
この年、近衛歩兵第三連隊に一年志願兵として入隊し、ここで旧泉州岸和田藩主岡部長寛の子岡部長世と出合い、中国陶磁器や魯山人のことを識り、本格的な勉強を始める。
1925年より、陶工としての修業がはじまるが、瀬戸では師に恵まれないまま、京都山科の蔵六窯に弟子入りした後、大正15年に独立して作陶活動を始める。
1927年、終生の交誼をつづけた石黒宗麿(1893~1963)との出合があって、小山の人生に大きな転機を与えた。
*石黒宗麿は1955年人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定され、その事蹟は世 間に知られていないが、唯一『小山富士夫著作集』(中)「石黒宗麿・人と作品」 に纏められている。
1929年から1945年に至るまでの小山は壮年期の仕事を,戦乱迫る中日本のみならず東アジア一帯に研究活動の手を伸ばした。ことに美濃・瀬戸・常滑などの古窯を初め、益子・笠間や西日本一円の古窯の調査発掘、鳥居竜蔵の発掘した蒙古ボロホトンの陶器の整理、中国定窯の発掘・調査特筆される仕事であろう。
また、この時期に柳宗悦らの民藝運動とも接触するが、行き方をめぐり互いに隔意を持ち、終いには批判論争も行われた。
*小山は昭和7年、「茶わん」8号誌上に「光あせた民藝派」という一文を載せてい る。
戦後、小山は陶芸の復興にも尽瘁し、自らも陶磁研究と作陶に精を出した。
昭和25年9月文化財保護委員会が発足するや、東大などで講じながら委員会事務局の美術工芸課に勤務し、1959年無形文化課の文化財調査官に就任し重要無形文化財保持者(人間国宝)選定の衝に当たることになり、まもなく加藤唐九郎の「永仁の壷」贋作事件にかかわり、その職を辞し、大きく生活は変わった。彼の大酒もこの頃からはじまったようである。
*「永仁の壷」贋作事件は昭和12年陶工加藤唐九郎が刑部金之助の依頼で「永仁銘瓶子」を焼き、これを「真作」として世にだした。
昭和34年、文化財専門審議会は小山の推薦で「重文」に指定された。(当時も贋作という異論があった)
昭和35年、加藤は「永仁銘瓶子」が自らの贋作であることを告白したことから、小山はその責をとり委員を辞す。
その後は小山は酒への傾斜を深め、陶作活動に力を注ぐことになる。
1962年(昭和36)頃から、ロンドン、トロント、東南アジアなどで作陶活動したあと、出光興産の美術顧問として九州に招聘され、1964年出光興産の出光中東調査団を率いてエジプトのフスタード遺跡の調査で、多大の発掘品をもたらしている。
その頃から、彼の作陶は本格的となり、出光佐三、細川護立らの後援の下、第一回の個展を行い、以後恒常化することとなった。1975年の彼の死までが主だった作品を生み出したということができ、豪放・磊落な「花の木窯」でのいわゆる「花の木カクテル」に代表されるように、作陶なきときは酒という奔放な生活の晩年であった。
この時期に、私の恩師松本雅明は小山との交友をはじめ、私等もそのはなしのお裾分けに与ったものである。
そういうことでこの時期に、九州の作陶家や陶磁研究家達へ、小山は多大の影響をあたえていることは、窯元巡りなどで思わぬ小山の足跡に出会うことがある。
また小山の作風を作品から推し量ってみるに、ことに古唐津への傾倒はかなりのものであったと思う。
昭和38年には、「徳利と酒盃」という論文を発表している。
(小山富士夫の作品の例示)
(唐津徳利)
(花盃(金彩入り))
(白掻き落し花生)
(盃)
(小山富士夫窯印)
(初窯)
(古山于銘)
(「小山富士夫著作集」上中下 朝日新聞社刊 目次)
「上」中国の陶磁
「支那青磁史稿」「宋磁」「中国陶磁上」「わが国にある中国の陶磁」
「定窯々址の発見について」「解説ー長谷部楽爾」「思い出ー田澤 坦 杉村勇 造」
「中」日本の陶磁
「やきものの歴史」「日本六古窯」「三彩・薩摩焼・その他」「人物論」
「紀行・随筆」
「下」朝鮮の陶磁他
「朝鮮の茶碗」「高麗陶磁序説」「朝鮮の旅」「曜変天目の研究」
「安南の陶磁」「台湾紀行」「現代ヨーロッパ陶芸」
「中国陶磁研究の展望」「漁陶紀行」「影青襍記」「年譜・主要著作目録他」